あれを読むと、昔のアメリカの女子大生のガリ勉ぶりと読書熱がよくわかるよ。なにしろ、主人公はベンヴェヌート・チェリーニの自伝まで読んでるんだから。
(出典 『ハサミ男』 殊能将之 講談社ノベルス 1999)


ジーン・ウェブスター著 松本惠子訳 『あしながおじさん』 新潮文庫
昭和33年十刷と平成21年百刷を読み比べた。

読み比べた、と言っても基本的に文章は同じである。

十刷は何故か自宅に昔からあったものだ。来歴は不明。たぶん家族のものではなく、うちに来た親戚の忘れものではないかと。
繰り返し(「とげとげ」「さらさら」など)に「くの字点」が使われていたり、「インキが三合」や「二斗ほどもの詩」という訳文に長年親しんできた。

いまでも十刷を読んでいるのだが、ふと思い立って、最近の版を買ってみた。

当然ながら訳注が増えており、「消防車の馬」には当時は消防自動車がなかったとの注がついている。また、主人公が、少女時代に読まなかったのは自分だけ、とこっそり買う本も、十刷は「「小婦人」(若草物語)」で「リトル・ウイメン」と振りがなが振られているが、百刷は「若草物語」で、続いてオルコット著のあたたかい家庭を描いた小説との訳注が増えている。

「あしながおじさん」を読むような人は、「若草物語」も読んだものだがなあ。
あと、「小公子」や「小公女」、「秘密の花園」など。
最近の児童文学全集って、どんなラインナップなんだろう。
「リトルプリンセス」とか言うのかなあ。

例のベンヴェヌート・チェリーニも、十刷にはない説明が百刷にはついている。百刷は漢字に細かくふりがながついているし、作者直筆の挿絵についている説明は、十刷では英文訳文併記だが、百刷は訳文のみだ。
あと、百刷は活字が大きい。読み易い。

十刷には、小説が書かれた時代とともに、訳された時代が反映されているような気がする。それが古い書籍の良さのひとつなのかもしれない。

「あしながおじさん」は、若い主人公が学生生活を通じて自己を培っていくさまを描いている。著者自身の宗教観や社会観が反映されている部分もある。
子供の頃これを読んで、大学に行ってみたいなとわたしは思ったんだ。

そういえば、北村薫の小説で、登場人物が「あしながおじさん」を通じて会話を交わす場面があった。
戦前の富裕層のお嬢様たち。女学校在学中にしかるべき相手との婚約が整ってしまう時代に、彼女たちはこれを読んでどう思ったのかな。

十刷の見どころは本文以外にもあって、それは巻末の書誌一覧である。
本文は新字体になっているが、こちらはバリバリの旧字体。「昼」が「書」の下に「一」のほうである。はじめはさっぱり読めなくて、暗号解読のごとしだった。
また、レニエ「燃え上がる青春」から始まって、仏文、米・英文、独文、露文、国文と、驚きの充実ぶり。岩波文庫かと思った。
ブールジェとかモーリヤックとか、恥ずかしながら知らない。読んでいない。
まだ入っているのかしら、新潮文庫。

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