昨日の日刊スポーツより


来年7月にかけて、別役作品を連続上演するそうだ。
こういう記者発表の記事は、スポーツ紙でないとなかなか読めない。

新作も予定されているそうだ。

ホームページによると、「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」をテアトルエコーが上演するとか。
そして舞台に一本の木
劇団東京乾電池本公演 
別役実作、柄本明演出
「そして誰もいなくなった~ゴドーを待つ十人のインディアン~」
下北沢 本多劇場

日刊スポーツの記者コラムを見て知った公演。
別役作品ですと。
なんとなんと。
これは行かねば。
急遽チケットを手配。

演劇の本丸、本多劇場に初めて乗り込んだ。
なんか、王道っつう感じだ。

東京乾電池と言えば、個人的には「笑ってる場合ですよ!」に尽きる。
ニュースステーションの「金曜チェック」と並んで、小劇団的なものをわたしに知らしめてくれたものだ。

なんだ、小劇団的なものって。

1980年当時のわたしの小劇団観、それは、「生活費にゆとりがないにもかかわらず、人を笑わそうとしている奇特な人たち」という大変失礼なものだったことを思い出す。

上演作品は、タイトル通り、「ゴドーを待ちながら」+「そして誰もいなくなった」。
チラシによれば、そこにモンティ・パイソン的ななにかも加わるとのこと。

お茶会に集められた人々と召使夫婦。主催者のゴドーを待ちながら、なんやかやでひとりずつ死んでいく。

不条理劇を解っているとはまったく言えないが、不条理さが醸す可笑しさや哀しみがあるわけで、それをさらに喜劇として面白くしようとすると、喜劇としての面白さが勝ってしまうのかな、という気がした。

でもやっぱり、生身の役者さんのリズミカルな動きは魅力的だ。
綾田俊樹はすっかり好々爺だなあ。
柄本明が、「今日はたくさんお客さんが来てくれたが、日程の最初のほうはこんなではなかった」「でも、お客さんが少ないのは嫌いじゃない。出演者10人なら、お客さんが10人くらいだと、緊張感があって」「とはいえ、やっぱりお客さんはたくさん入る方がいい」と言っていた。
わたしのように、新聞なんかで公演を知った人が多いのだろう。

この作品は、本多劇場こけら落とし3公演のうちの一つだったとか。
中村伸郎の舞台をたくさん見ておきたかったなあ、と思う。
誰かがくるのをまっている
別役実・作、佐野剛・演出、兵庫県立ピッコロ劇団『不条理・四谷怪談』(座・高円寺2)

作中の伊右衛門は、釣りにおいては誠実な男である。
賽の河原ぎりぎりにいて、なお、誠実に釣り糸を垂れる。

伊右衛門は不誠実な男であって、妻を不幸に追い込む。
策は甘く、なんだかわからないうちに殺人を重ねる。
自分が殺した人たちに追い込まれ、自滅する。
自滅の際にあって伊右衛門がこだわったことは、自分が正気のまま果てたかどうか。
浪士の山鹿流陣太鼓に送られるように、こときれる。

「東海道四谷怪談」と赤穂浪士の討ち入りという、よく知られたふたつの話を綯い交ぜにして書かれた戯曲。

「赤穂義士は、本当に全員討ち入りに参加したかったのだろうか?
そうしなければいけない空気があって、やむをえず参加した人間がいたのではないか?」
「「討ち入り」イコール「イベント主義の理想」というのが本当は場当たり的で「狂気」なのではないか?」
(公演リーフレット掲載 作者の言葉より)

マスの声に翻弄され慌てふためき、後になってみて、マスがなんだか判らない時がある。

演じたピッコロ劇団は、県立の劇団だそうである。

別役作品を前回見てから、少なくとも25年は経っている。
もともとは、朝日ジャーナルの「犯罪季評」くらいしか読んでいなかった。
その後、三一書房から出ていた戯曲集を、図書館で借りて読んでみた。

大学生の時、『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』を見た(1987年10月、パルコスペースパート3)。
演劇集団円の中村伸郎と文学座の三津田健の共演とあって、たいへん話題になった公演だった。

いまにも朽ちてしまいそうな騎士が二人、殺しあうのか、誰かに殺されるのか。
と思えば、二人をのこして、他の登場人物はどんどん死んで行ってしまう。

二人はじっと、誰かが来るのを待つ。
自分たちを殺そうとする相手が、来るのか来ないのか判らない相手が来るのをじっと待つ。

伊右衛門も、いるのかいないのか判らない者が来るのを待っていた。

柳の木が、電信柱の代わりだったのかな。

参考文献 「新劇」1987年11月号