読んだ本について記録する 11
ファーブ島に住みたいのお


ウィリアム=ペン=デュボア作 渡辺茂男訳 『三人のおまわりさん』 学習研究社 1965

「新しい世界の童話シリーズ」の一作。
むかしむかし読んだ記憶があるが、何歳ころ読んだのか覚えていない。
シリーズ中、他に読んだ本がないから、結構大きくなってからではないかと思う。

おさかな資源が豊富な島、ファーブ島。住民は漁師さんか漁師さんを引退し、魚の加工業に従事。
いちばんの魚釣り名人が市長さん。
市長さんの次に偉いとされる三人のおまわりさんは、なんでか魚釣りをしない。
彼らの自転車をメンテナンスする6歳の少年、ボッツフォードも魚釣りをしない。

おまわりさんは毎朝、市長さんの「おきろ!」等々というアナウンスで目覚める。
注意事項のすべてが、装いに関すること。
しゃきっと制服に着替える。
が、あまりに平和すぎて、彼らはおまわりさんの仕事がなく、ひたすら素敵な制服をつくることに日々を費やしている。
そんなファーブ島に、島の歴史始まって以来の大事件が起こる。

以前に読んだとき、気になって仕方がなかったことが数点あった。

その1 三人のおまわりさんが事件解決のため制作するものが、あまりにサイズ違いではないか。

これは、挿画を担当した柳原良平の画が、あんまりにも素晴らしすぎたがゆえである。
アンクル・トリスでおなじみの柳原良平の画は、当然日本版オリジナルであろうが、素晴らしい。
原版にもこれだけふんだんに挿画があったのだろうか。
海ものということで、なんとも生き生きとしている。
この制作のくだりだけ、ボッツフォードの手をあまり借りないのは、おまわりさんの制服作りの腕が生きているのだろう。

その2 どう読んでもおまわりさんが偉そうに見えない

これをいたいけな子供ちゃんに読ませてよいのか、と思ったが、これを読んでも読まなくても、きっと、子供というのはこういう意識を体験をするものなのだろう。

いろいろあって、おまわりさんは叙勲するものの、おまわりさんに使われる立場だったボッツフォードは、ボッツフォード1世となる。
おまわりさんのボッツフォードに対する態度がどう変化したのか、文面には表れない。
柳原良平の挿画には、あたたかい視線が描かれている。

エンディングの余韻がまた素晴らしい。
津原泰水 「音楽は何も与えてくれない」 幻冬舎 2014

カバーにはさまざまな楽器。主にギターで、端っこのマトリョミンが可愛い。

小説家津原泰水のエッセイ(かなあ)集。初出はインターネットのブログなど。
ご両親のことや文筆業に従事するようになるまでのこと、ギターとの馴れ初め、音楽のことなどが書かれている。
クラウス・フォアマンのエッセイも収録。

津原の小説は、「バレエメカニック」と「11eleven」しか読んでいない。
「バレエメカニック」は印象深い小説だったが、正直なところ、あんまりよく解らなかった。
解らないなりに面白かったけれど、だいじなところを自分は面白く思えていないのではないか、と自分で自分が残念に思える。

作者は、こういう奴には読まれたくないと思っているんじゃないかと。

ご両親が描かれている文章が、とても美しい。

我孫子武丸とウクレレについての文章は、とても短いが何度読んでも楽しい。

「ジェマーソンとケイ、そしてマーヴィン・ゲイ」を読んで思い出したことが。
数年前にテレビでブライアン・ウイルソンのドキュメンタリーをやっていた。
放映当時のブライアンが、自宅みたいなところでちょっとした演奏をしたのだ。
その時一緒に演奏をしたベーシストが、どう見ても近所に住んでいるおばさんみたいな人だったのだ。
おばさんじゃなければ、おばさんに見えるおじさんだ。
しかし、ベースのことをよく知らないわたしが見ても、それはすごいベースだった。
おばさんルックスであることを差し引いても、すごいベース。
単なる伴奏とはあきらかに違う、音があっちいったりこっちに来たり(小並感)。

途中から見た番組で、ふたたび見る機会もいまだなく、確認はできないのだが、あのおばさんのように見えるベース奏者が、間違いなくキャロル・ケイだったのだろう。
レコーディングはブライアンがベースを弾いていると思い込んでいたから、この収録のために呼ばれたのかと早合点し、それゆえの「近所の人」的印象だったのだ。

実は敏腕ベース奏者だったのだ。

キャロル・ケイのくだりでも、筆者がこどものころ音楽を聴いていろいろ解析していたという記述がある。

そのときそのときの思いを文章にとどめるのは、とても難しい。
自分のことであるがゆえに、余計に難しいのかもしれない。
できるかできないかが、才能の差なのかもしれない。
サッカーのワールドカップ大会が近づくと、ナンシー関の書いたコラムを思い出す。
サッカーなどとともに思い出されて、ナンシー関もさぞや心外だろう。
わたしも、忸怩たる思いでいっぱいである。

ナンシー関 「語りあかそう」 河出文庫 2104

南伸坊、林真理子、中野翠、近田春夫、みうらじゅん、東海林さだお、群ようこ、川勝正幸、小田嶋隆、との対談集。

テレビに出ている人の醸す違和感を語るナンシーに対し、「だって、あの子、いい子だよー」というおじさまたちが微笑ましい。

微笑ましい、としか総括できぬ。

みうらじゅんが、「蛭子さんのつぎにくるのはタキモト」と言っているが、きたのか、タキモト。
それを聞いてあげている、ナンシー関。

ナンシー関は、意外と聞いてあげている人だ。
きっと対談相手は、気分よく対談していたんだろう。
読んだ本について記録する 8
読んだ本について記録する 8
別役実 「東京放浪記」 平凡社 2013

東京ほど地名で語られる都市はない。

例えば、朝刊に「たばこと塩の博物館」の広告が載っていた。
それによると、近々、渋谷区から墨田区へ移転するそうだ。

「渋谷のあのあたりもなんか寂しくなっちゃったし、ちょっとおっかない感じだからね、墨田区なんていいんじゃないの。スカイツリーあるし。」
などとつい言ってしまうわたし。

住んだことがあればよく利用した路線や沿線を、住んだことがなくても、通った覚えのある街を、親しげに語りがちだ。

著者は高校卒業後、家族で長野県から上京した。
以来今日までを、住所の地名から、親しんだ街の名前から、電車の路線から、振りかえっている。

タイトルにあるように、そこに定着するようなしないような、仮住まいのようなそうでないような暮らしが描かれる。

早稲田大学入学直後に演劇活動に参加し、以来、劇作中心の暮らしも、帰属のないようなあるような空気を漂わす。

それは、著者の来歴もさることながら、東京という街のもつ独特さに由来するものなのかもしれない。

自著について書かれているのも、興味深い。

執筆は長らく喫茶店で行い、それに適した喫茶店のあれこれも書かれている。

著者の喫茶店についてのこだわりを、大学生のころ読んだエッセイで知った。
現代新書編集部編 「東京情報コレクション」 講談社 1986
だいぶ浮かれたタイトルの選書だが、集められたエッセイは、バブル全盛期だというのに醒めた目線が感じられ、今読んでも面白い。
この本は国分寺の三石堂で買ったのだが、あるじ(かな?)の見事な手さばきで、紙カバーが掛けられている。

元の書籍にもどって、「東京放浪記」は、帯にあるように自伝的エッセイ集であるので、ご家族のことも折に触れ描かれている。
娘さんであるべつやくれい氏のファンは、必読だ。

べつやく氏も、東京の街についてのエッセイを描いている。
べつやくれい 「東京おさぼりスポット探検隊」 メディアファクトリー 2010
帯にあるように、東京の街でうまいことさぼる、ということをひたすら主眼にしている。
お父様にできたばかりの東急ハンズへ連れて行ってもらったエピソードなども、描かれている。

ふと思い出したのだが、中村伸郎の「授業」を見たいと思っていたが、ついぞ見る機会がなかった。
ジァンジァンもなくなってしまった。

渋谷なんて、もとよりわたしが語れるような街ではないのである。


読んだ本について記録する 7
『池袋交差点24時』加藤ひさし&古市コータロー Pヴァインブックス 2012

もう寝ないといかんと思いながらテレビを見たら、清水ミチコが出ていた。
清水ミチコは好きなので、見始める。
居酒屋のカウンターの中にママよろしく清水ミチコ。トーク番組らしい。
他の出演者は、ローリー寺西に、リアル天才バカボンもといカジヒデキ。

あ、コレクターズの人たちも出ている。

20年ほどまえ、アルバム"Picturesque Collectors’ Land"をきっかけに、空前の「ザ・コレクターズ」ブームが個人的に到来した。
そしてまもなく、ブーム収束。
その後のコレクターズについては、あまり知らない。

そんなコレクターズの加藤ひさしと古市コータローが、CSとはいえ、テレビに。

と思いつつ見ていると、彼らはゲストではなく、なんとこの番組のレギュラーだった。

映画について語っていたのだが、「さらば青春の光」とか「コレクター」とかいかにもなタイトルに混じって、加藤が「下妻物語」をあげていた。

茨城県でひたすらロリータな深田恭子と、どんなに暑くてもひとり熊谷でモッズな加藤。
モッズ一筋25年。

そんな加藤と古市のポッドキャスト番組が「池袋交差点24時」。
人気コンテンツらしい。そこからの抜粋を書籍化。
紙が厚くて写真が多くてフォントが少ない、意外と豪華本。
パイロット版というか、カタログ的なもの。

テレビでは圧倒的に、アタックの強い声の加藤が抑揚の効いた語りを展開していたが、ポッドキャストでは意外にも、古市が奔放に語り倒しているようだ。
飽きっぽい、わがままな東京っ子の資質全開。

わたしのお気に入りは、加藤がおにぎりの思い出を語る「おにぎりは見かけがすべて」。おばあちゃんにのりたまと間違えてお茶漬け海苔を掛けられてしまい、同級生に歌に歌われるほどの緑色のおにぎりを食べた思い出を、時代に先駆けていた、「早かったね、モッズだね。」と総括。

あと、やはり加藤がシベ超3を「見届けるため」と試写へ行ったら3人しか客がいなくて、そのうち一人は5分で退出してしまい、結局帰りのエレベータにマイク水野とふたりで乗り合わせた話とか。

すごいな。見届けたいか、「シベ超」を。

この手の本の名作と言えば、
『タキモトの世界』 久住昌之、滝本淳助 太田出版 1992

決定的な違いと言えば、『池袋』はこれ見よがしに読んでもいいけれど、『タキモト』はわりとこっそり読むな。なんだかんだ言って。
あと『タキモト』、人に薦めにくい。

タキモト、早すぎたね。モッズだね。

今調べたら、『タキモト』、復刊されていた。びっくり。
『追悼 殊能将之さん/法月綸太郎、大森望』 メフィスト2013vol.1 講談社

だいたい、亡くなったとたんに「〇〇さん」って、なんだよ。

ウォーレン・ジヴォンが亡くなったとき、職場の近所のCDショップが「追悼ウォーレン・ジヴォンさん ご冥福をお祈りします」って貼りだしていて、びっくりした。
抜け目ないっつうか。
ジヴォン、亡くなったこと以外に、他に売りがないみたいではないか。

だいたい、亡くなったとたん、「ありがとうございました」って、なんだよ。

そんなにすぐ、過去の人にしたいのかい?

法月綸太郎は、やっぱり信じられなくて、「嘘の追悼文」だとしている。
喪失感が伝わる。

大森望は、殊能センセーとなる以前からの、センセーを振り返っている。

殊能センセーは、博覧強記の人だ。本当に、いろんなことを知っているなあ、と思う。
引用なんて難しくてよく解らない。
けれど、小説を読んだ後、なんともいえない充足感がある。

センセーの日記も、いろいろなことに言及していて、現代音楽についての記述など、わたしにはよく解らないことが多い。
でも、それは知識のひけらかしなどではない。
真矢みき様への真摯な姿勢、お茶の間目線でのテレビ番組の感想や家事の記録は、短いけれど、センセーの小説を読んだときと同じくらいの充足感がある。


ひょっこりどこかから出てきてくれないかな、センセー。
何て名前でもいいですから。

ラジオで大森望が殊能将之逝去について語ったのを、ネットのアーカイヴで聴いたが、いちばん印象に残ったのは、大森氏が婦人物トップス(いいやつ、Lサイズ)を着ている、ということだった。
著者近影がなんとなくおばさんぽいのは、そのせいだったのか。

センセー、すまない。

先日カラオケへ連れて行って貰い、"Scissor man"はやっぱり入っていなかったので、代わりと言ってはなんだが、"That’s really super,supergirl"を歌ってきた。

センセー、すんません。

四月の莫迦

2013年4月1日 読書
うそであればよいのに


今から14年くらい前のある日。
東京へ遊びに行って、帰りの電車で本でも読もうと思って、駅で本を買った。
雑誌かなにかで話題になっていて、書籍名に覚えがあったノベルズを、適当に買った。
ハードカバーは重いが、ノベルズなら手頃だ。
飽きてもたいした荷物にならない。

飽きるどころか、車中でどんどん読み続け、あっというまに地元駅についてしまった。

どうしよう。

続きが読みたい。

駅から10分くらい歩くので、歩きながら読めないかと試してみたが、ちょっと無理だった。
急いで帰って、続きを読んだ。

殊能センセーに、ひとことだけ言いたいことがあったのに。

Jorge Calderon、読み方は「ホルヘ・カルデロン」だと思います。
("o"の上に記号が付きます。)

単行本に挿絵が載らないのが、昔から不思議だ。もったいない。


一回も読まないまま終わることも少なくない、新聞連載小説。
初めて意識的に読んだのは、たぶん有吉佐和子の『複合汚染』だ。
小林信彦『極東セレナーデ』、井上ひさし『偽原始人』も新聞で読んだ。
最近だと、挿絵が気になって、乙川優三郎『麗しき花実』と長嶋有『ねたあとに』を読んだ。
『麗しき花実』の挿絵画家、中一弥氏は連載当時98歳である。
『ねたあとに』は、朝日新聞社まで高野文子の原画展を見に行った。

だからと言って、上にあげた小説家が好きというわけではない。
新聞ででも読まない限り、日常、小説を読んだりしないのだ。
それほど読書好きではない。
だからこそ、『文学賞メッタ斬り!』に影響されやすい。

本を読まないといられない、という部類ではない。
ただ、面白い本を思いがけなく読むと、得したな、と思う。

伊坂幸太郎 『ガソリン生活』 朝日新聞出版 2013

これは連載当時から好きで、単行本化を楽しみにしていた小説。
舞台は仙台、語り手は登場人物である望月一家の愛車、緑のマツダデミオ。通称「緑デミ」(車たちのあいだでは)。
主な聞き役は、隣家の校長先生の乗る古いトヨタカローラ。先生の愛聴するミュージシャンにちなんで「ザッパ」と(車たちのあいだで)呼ばれている。
彼らや、行きかう車たちや駐車場で出会った車たちとのおしゃべりから、望月家の面々が遭遇するある事件とその関係者が語られる。

緑デミがかわいい。彼(一人称は「僕」)の、車という立場からの語り口にいつの間にか共感する。
わたしはうちの車にどう思われていますかな。
「うちのこがらしさん、最近運転が荒くて」なんて、職場の駐車場で毎朝嘆かれていたりして。

車の前面がちょっと人の顔のようなデザインなのは、運転する人の心情への働きかけのため、あえてそうしているのだと聞いたことがある。
そう思ってみてみれば、つんとした顔や愛嬌のある顔など、さまざま。
車どうしで、本当に挨拶を交わしているかのようだ。

連載を読んでいる頃、知人が交通事故にあい、車両をだめにしてしまった。
その車の悲痛な気持ちを思い、わたしまで悲しくなってしまった。

人間の登場人物も魅力的に描かれている。子供らしくない小学生、ある悩みを抱えた高校生の姉、のんびりした大学生の兄、子供への信頼とユーモアを持つ母。

「それとなく楽しめ、少し笑える」小説を目指した、と連載終了後作者は記している。
今日一日いろいろなことがあって、気落ちしたり腹立たしい思いで帰宅したあと、食卓で読む夕刊にこんな小説が載っていて、その続きが気になると、明日が来るのが少し嫌でなくなるのだ。
あれを読むと、昔のアメリカの女子大生のガリ勉ぶりと読書熱がよくわかるよ。なにしろ、主人公はベンヴェヌート・チェリーニの自伝まで読んでるんだから。
(出典 『ハサミ男』 殊能将之 講談社ノベルス 1999)


ジーン・ウェブスター著 松本惠子訳 『あしながおじさん』 新潮文庫
昭和33年十刷と平成21年百刷を読み比べた。

読み比べた、と言っても基本的に文章は同じである。

十刷は何故か自宅に昔からあったものだ。来歴は不明。たぶん家族のものではなく、うちに来た親戚の忘れものではないかと。
繰り返し(「とげとげ」「さらさら」など)に「くの字点」が使われていたり、「インキが三合」や「二斗ほどもの詩」という訳文に長年親しんできた。

いまでも十刷を読んでいるのだが、ふと思い立って、最近の版を買ってみた。

当然ながら訳注が増えており、「消防車の馬」には当時は消防自動車がなかったとの注がついている。また、主人公が、少女時代に読まなかったのは自分だけ、とこっそり買う本も、十刷は「「小婦人」(若草物語)」で「リトル・ウイメン」と振りがなが振られているが、百刷は「若草物語」で、続いてオルコット著のあたたかい家庭を描いた小説との訳注が増えている。

「あしながおじさん」を読むような人は、「若草物語」も読んだものだがなあ。
あと、「小公子」や「小公女」、「秘密の花園」など。
最近の児童文学全集って、どんなラインナップなんだろう。
「リトルプリンセス」とか言うのかなあ。

例のベンヴェヌート・チェリーニも、十刷にはない説明が百刷にはついている。百刷は漢字に細かくふりがながついているし、作者直筆の挿絵についている説明は、十刷では英文訳文併記だが、百刷は訳文のみだ。
あと、百刷は活字が大きい。読み易い。

十刷には、小説が書かれた時代とともに、訳された時代が反映されているような気がする。それが古い書籍の良さのひとつなのかもしれない。

「あしながおじさん」は、若い主人公が学生生活を通じて自己を培っていくさまを描いている。著者自身の宗教観や社会観が反映されている部分もある。
子供の頃これを読んで、大学に行ってみたいなとわたしは思ったんだ。

そういえば、北村薫の小説で、登場人物が「あしながおじさん」を通じて会話を交わす場面があった。
戦前の富裕層のお嬢様たち。女学校在学中にしかるべき相手との婚約が整ってしまう時代に、彼女たちはこれを読んでどう思ったのかな。

十刷の見どころは本文以外にもあって、それは巻末の書誌一覧である。
本文は新字体になっているが、こちらはバリバリの旧字体。「昼」が「書」の下に「一」のほうである。はじめはさっぱり読めなくて、暗号解読のごとしだった。
また、レニエ「燃え上がる青春」から始まって、仏文、米・英文、独文、露文、国文と、驚きの充実ぶり。岩波文庫かと思った。
ブールジェとかモーリヤックとか、恥ずかしながら知らない。読んでいない。
まだ入っているのかしら、新潮文庫。
円城 一応、語り手は切り替えさせてもらいました。
大森 ワトソンではない。
円城 ワトソンは出てくるんですけど、しゃべる人、ナレーターは違う人です。
出典「グッジョブ!芥川賞 受賞作家、円城塔と語る」(『文学賞メッタ斬り!ファイナル』大森望、豊崎由美 PARCO出版 2012)より
※豊崎氏の「崎」のつくりは「竒」


語り手・・・。なるほど!

伊藤計劃×円城塔 『屍者の帝国』 河出書房新社 2012

SFは難しいと思う。

SFというと、「こうなるかもしれない未来」を描いているものが多いとわたしなどは思いがちだが、この小説の舞台は1878年、「あったかもしれない過去」を描いている。
そして舞台は、イギリスからインド、アフガニスタン、日本、合衆国と、さまざまに遷移する。
そのため、実在した人物が登場するし、フィクションの人物も、小説オリジナルではない、他の物語で描かれた人物が多数登場する。

大作である。
伊藤計劃がのこしたプロットから物語を紡いでいった円城塔は、すごい書き手だと思う。
自分とおんなじ人間とは思えん。
ちゃんと読み下せたか、自信がない。

この物語の世界では、亡くなった人に、死去により失われた「霊素」に代わる「疑似霊素」を書き込むことで、肉体の働きを再生し、労働力として生かしている。
再生されるのは体の動きのみで、考えたり、喋ったりはできない。

小説内では、人間以外の動物では、この再生を成功していない、とされている。
ふつう、人体より先に動物実験をしそうなのにな、と思い読み進めると、理由が記されていた。

それは、動物には魂がないから。

後半、この定説にある反論が掲げられる。

動物実験しそう、なんてわたしも冷淡な奴だ、と我ながら思った。

小説というのは、書き手の世界観をあらわしたものだと思う。
自分が今いる世界をつづったり、こうであってほしいと願う世界をつづったり、
または、こうなっては嫌だという世界をつづる。
たとえ狭い社会を描いた物語だとしても、世界と地続きであることに変わりはなく、それは読み手ともつながっている。

この物語は、なかった過去を描いている。
そうであっても、わたしの今や未来とかかわりがないとは言えない。


広い場所に恐怖を感じる

宇宙の画像が怖い。
いくらかの酸素を持ったまま、果ての無い宇宙空間をたったひとりで漂うはめになったらどうしよう。

地図帳の海洋のページも苦手。
海溝の映像もだめだ。

ほどよく囲われて、右も左も天も地もある狭い空間は、わたしに安心を与えてくれる。
あんまり狭すぎてきゅうきゅうなのも、圧迫感が苦手なのだが。


ヨシタケ シンスケ『せまいぞドキドキ』講談社 2013

車の荷台に、わざわざ荷物にまみれて乗り込んで、ちょっと工夫してそれなりの居心地を確保したり(「せまい車の中」について)、自動改札についての思惑をあれこれとめぐらしたり(「せまい改札」について)、せまいところにドキドキする著者のイラストエッセイ。
机は広いものが好きで、地面に穴を掘って座り込んで、「地球はオレの机」をやってみたい、と言いつつ、そんな机のうち手元しか使っていないとか。
大切なものでも何年も押入れにしまっておくと、自分のなかでの価値観が変わって捨てられるようになる、「押入れは捨てる勇気を育てる場所」とか。

ただ狭いところが好き、というだけではないエッセイ。

後半の「思い出し御膳」のページでは、口に入るものにまつわるいろいろな思い出が綴られている。
ちいさいこどもを描いたイラストが、こどもらしくて懐かしい。

この手の本はあっというまに読み終えてしまうけれど、そのあと、日常のそこここで思い出し笑いのネタになってくれる。たのしいな。
D.L.エヴェレット『ピダハン「言語能力」を超える文化と世界観』(みすず書房 2012)

タイトルにある括弧つきの言語能力という言葉が、あとあと効いてくる。

もともとのタイトルは「寝るんじゃないぞ。蛇がいる。 アマゾンのジャングルにおける生活と言語」みたいな意味だ(たぶん)。
若くして信仰を得、それを布教する生活を送ってきた著者が、独自の言語をもつアマゾンの民ピダハンに出会い、人生を一変させたという物語。
信仰を現地語に翻訳する必要から、言語調査の基礎訓練を受け、布教に赴いては言語を学び、布教にいそしむという生活をしてきた著者。彼は家族(だけ)とともに現地に入り、ピダハンとともに生活し、それを理解するのはピダハン以外は前任者のみ、という彼らの言葉を学ぶ。
言葉の理解を深めるとともにピダハンの生活に触れ、親しく接することで、結果、聖書の翻訳は達成したものの、逆に信仰心を失い家族をも失うに至る。

相手がどういう人であれ、自らの信仰を是とし、それを伝え信じてもらうことが相手にとっても是であると信じる心は純粋だ。だからこそ、相手の言葉を習得するという、わたしには泥縄とも思えるような作業から着手してでも布教に励むことができたのだろう。
翻ってピダハンは、現に目にしたことしか信じない。見たこともない神様の言葉など、信じない。数も数えない。「赤」や「黄色」のような色だけを表す言葉もない。生活に使用しないからだ。
そして著者は、言語であれば必ず発生する「リカージョン」が、ピダハンの言語には起こらないことを発見する。

12月15日に放映された「地球ドラマチック ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」(NHK教育)では、この本の後日談が描かれていた。
リカージョンが起こらない言語がある、という著者の主張は、言語学界のお歴々を敵に回したらしい。かのノーム・チョムスキーもそんなことはないんじゃないの、くらいのことを言っていた。

言語学のことは何一つ知らないが、このときの映像を見た感想は、(著者はきっと業界では「この宣教師風情がなにを言う」くらいに見られているのだなあ)だ。チョムスキーが頭の固い大御所に見えた(実際にどうかは知らない)。

著者の主張の検証のため、著者本人も参加して現地でのサンプル採取が計画されたのだが、ブラジル国立インディオ保護財団により、著者の滞在は許可されない。説明を求めたものの、会話すら拒否される。映像の中では、言語学界で論争が起きたことに財団が警戒したためとされていた。

著者は、ピダハンの人々に会いたい、と訴える。

映像によれば今、ピダハンの住む地には、電気が引かれテレビが視聴でき、子供たちは学校で数を学んでいる。かつてと異なり、工業製品のTシャツやズボンを着用している。

ピダハンの人々は、互いの意思疎通が可能な言語を既に獲得している。言語能力が低いためにリカージョンが発生しないわけではなく、その生活様式にリカージョンが必要ないだけだろう。
そして、リカージョンが起こる言語が、優れているというわけでもないだろう。

知らなくてもよいことを知っていることは、生活に彩りを与える側面もあり、煩わしいことでもある。知らなかった時代に戻ることはもうない。
ツイッターというものが、よく解らない

現代人の必携アイテム、ツイッター。
掲示板とかチャットルームとかと、どう違うの?
ひっきりなしに見ていないと、まずいの?
ガラケーでもできるの?
疑問は尽きない。
その上、「リツイート」だの「タイムライン」だの知らない言葉が次々と出て来るに至り、どうもわたしには解らないツールだと結論付けてしまった。
ああ、英語は得意だった筈なのに。「Y2K」の意味が解らなかった苦い思い出が蘇る。ああ無念。

日常で会話を弾ませることが苦手なわたしであるが、せっかく発言するならウケたい。
職場の会話などでも、珠玉のエピソードを繰り出すべく、人知れず葛藤が尽きないわたくしである。
ツイッターなどというもので、会話を弾ませることができるのか。瞬発力が要りそうだ。
相手をしてくれる人が存在するのか。
独り言では日記だ。日記にしてはせわしない。

『中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?』NHK_PR1号著 新潮社 2012
この本で著者は、広報のツイッターで目指すのは情報の発信よりむしろ、情報の受信だと綴る。ツイッターの仲間を信じ、会話を重ねることでNHKを知ってもらうのが、広報の役割であると。
広報とは広聴である、ということか。
そして、公共放送であるNHKとは、「あなたのNHK」ではなく「あなたがNHK」である、つまり、あなたこそが「中の人」なのだ、と綴る。
サービス業は、サービスする人とされる人に分かれ、する人がサービスの主体と思いがちだが、サービスの当事者であるのはむしろ、される人である。される人の思いに立ったサービスを供給するのが、サービスする人の役割だ。

ユーモラスな筆致で読みやすいが、業務に対する真摯な姿勢も伝わる。

なるほど、ツイッターは面前にいない人ともそこにいるかのように会話できるもの、という基本は理解できた。押さえたぞ。

遠い遠いツイッターが、隣の県くらいに近くなりました。