自然というのは恐ろしい
2014年6月14日 日常鳥さんが我が家のいずこかに巣を作った。
ことしに限ったことではない。
いずれこどもが巣立っていけば、とほったらかしにしておく。
バタンバタンしているのは、ちょっとの間だけだ。
と思いきや。
意外な長逗留、ということもなく、鳥さんたちは予定通り立ち退いて行ったが、
惨劇が待っていた。
まず、部屋が鳥小屋くさい。
そして、
極細の虫が這いまわる。あれ、畑から虫持ってきちゃったかな、と思いきや、
全身をくまなく、ものすごいかゆみが襲う。
虫に喰われまくっていた。
わたしはあんまり旨くないですから、ほかの獲物をあたってください、と虫に頼みたくなる。
自然と共存などと言うはたやすいが、人間は自然と共存できるほど頑強ではないと思い知る。
ことしに限ったことではない。
いずれこどもが巣立っていけば、とほったらかしにしておく。
バタンバタンしているのは、ちょっとの間だけだ。
と思いきや。
意外な長逗留、ということもなく、鳥さんたちは予定通り立ち退いて行ったが、
惨劇が待っていた。
まず、部屋が鳥小屋くさい。
そして、
極細の虫が這いまわる。あれ、畑から虫持ってきちゃったかな、と思いきや、
全身をくまなく、ものすごいかゆみが襲う。
虫に喰われまくっていた。
わたしはあんまり旨くないですから、ほかの獲物をあたってください、と虫に頼みたくなる。
自然と共存などと言うはたやすいが、人間は自然と共存できるほど頑強ではないと思い知る。
読んだ本について記録する 10
2014年6月14日 読書津原泰水 「音楽は何も与えてくれない」 幻冬舎 2014
カバーにはさまざまな楽器。主にギターで、端っこのマトリョミンが可愛い。
小説家津原泰水のエッセイ(かなあ)集。初出はインターネットのブログなど。
ご両親のことや文筆業に従事するようになるまでのこと、ギターとの馴れ初め、音楽のことなどが書かれている。
クラウス・フォアマンのエッセイも収録。
津原の小説は、「バレエメカニック」と「11eleven」しか読んでいない。
「バレエメカニック」は印象深い小説だったが、正直なところ、あんまりよく解らなかった。
解らないなりに面白かったけれど、だいじなところを自分は面白く思えていないのではないか、と自分で自分が残念に思える。
作者は、こういう奴には読まれたくないと思っているんじゃないかと。
ご両親が描かれている文章が、とても美しい。
我孫子武丸とウクレレについての文章は、とても短いが何度読んでも楽しい。
「ジェマーソンとケイ、そしてマーヴィン・ゲイ」を読んで思い出したことが。
数年前にテレビでブライアン・ウイルソンのドキュメンタリーをやっていた。
放映当時のブライアンが、自宅みたいなところでちょっとした演奏をしたのだ。
その時一緒に演奏をしたベーシストが、どう見ても近所に住んでいるおばさんみたいな人だったのだ。
おばさんじゃなければ、おばさんに見えるおじさんだ。
しかし、ベースのことをよく知らないわたしが見ても、それはすごいベースだった。
おばさんルックスであることを差し引いても、すごいベース。
単なる伴奏とはあきらかに違う、音があっちいったりこっちに来たり(小並感)。
途中から見た番組で、ふたたび見る機会もいまだなく、確認はできないのだが、あのおばさんのように見えるベース奏者が、間違いなくキャロル・ケイだったのだろう。
レコーディングはブライアンがベースを弾いていると思い込んでいたから、この収録のために呼ばれたのかと早合点し、それゆえの「近所の人」的印象だったのだ。
実は敏腕ベース奏者だったのだ。
キャロル・ケイのくだりでも、筆者がこどものころ音楽を聴いていろいろ解析していたという記述がある。
そのときそのときの思いを文章にとどめるのは、とても難しい。
自分のことであるがゆえに、余計に難しいのかもしれない。
できるかできないかが、才能の差なのかもしれない。
カバーにはさまざまな楽器。主にギターで、端っこのマトリョミンが可愛い。
小説家津原泰水のエッセイ(かなあ)集。初出はインターネットのブログなど。
ご両親のことや文筆業に従事するようになるまでのこと、ギターとの馴れ初め、音楽のことなどが書かれている。
クラウス・フォアマンのエッセイも収録。
津原の小説は、「バレエメカニック」と「11eleven」しか読んでいない。
「バレエメカニック」は印象深い小説だったが、正直なところ、あんまりよく解らなかった。
解らないなりに面白かったけれど、だいじなところを自分は面白く思えていないのではないか、と自分で自分が残念に思える。
作者は、こういう奴には読まれたくないと思っているんじゃないかと。
ご両親が描かれている文章が、とても美しい。
我孫子武丸とウクレレについての文章は、とても短いが何度読んでも楽しい。
「ジェマーソンとケイ、そしてマーヴィン・ゲイ」を読んで思い出したことが。
数年前にテレビでブライアン・ウイルソンのドキュメンタリーをやっていた。
放映当時のブライアンが、自宅みたいなところでちょっとした演奏をしたのだ。
その時一緒に演奏をしたベーシストが、どう見ても近所に住んでいるおばさんみたいな人だったのだ。
おばさんじゃなければ、おばさんに見えるおじさんだ。
しかし、ベースのことをよく知らないわたしが見ても、それはすごいベースだった。
おばさんルックスであることを差し引いても、すごいベース。
単なる伴奏とはあきらかに違う、音があっちいったりこっちに来たり(小並感)。
途中から見た番組で、ふたたび見る機会もいまだなく、確認はできないのだが、あのおばさんのように見えるベース奏者が、間違いなくキャロル・ケイだったのだろう。
レコーディングはブライアンがベースを弾いていると思い込んでいたから、この収録のために呼ばれたのかと早合点し、それゆえの「近所の人」的印象だったのだ。
実は敏腕ベース奏者だったのだ。
キャロル・ケイのくだりでも、筆者がこどものころ音楽を聴いていろいろ解析していたという記述がある。
そのときそのときの思いを文章にとどめるのは、とても難しい。
自分のことであるがゆえに、余計に難しいのかもしれない。
できるかできないかが、才能の差なのかもしれない。