読んだ本について記録する 2
2012年12月26日 読書D.L.エヴェレット『ピダハン「言語能力」を超える文化と世界観』(みすず書房 2012)
タイトルにある括弧つきの言語能力という言葉が、あとあと効いてくる。
もともとのタイトルは「寝るんじゃないぞ。蛇がいる。 アマゾンのジャングルにおける生活と言語」みたいな意味だ(たぶん)。
若くして信仰を得、それを布教する生活を送ってきた著者が、独自の言語をもつアマゾンの民ピダハンに出会い、人生を一変させたという物語。
信仰を現地語に翻訳する必要から、言語調査の基礎訓練を受け、布教に赴いては言語を学び、布教にいそしむという生活をしてきた著者。彼は家族(だけ)とともに現地に入り、ピダハンとともに生活し、それを理解するのはピダハン以外は前任者のみ、という彼らの言葉を学ぶ。
言葉の理解を深めるとともにピダハンの生活に触れ、親しく接することで、結果、聖書の翻訳は達成したものの、逆に信仰心を失い家族をも失うに至る。
相手がどういう人であれ、自らの信仰を是とし、それを伝え信じてもらうことが相手にとっても是であると信じる心は純粋だ。だからこそ、相手の言葉を習得するという、わたしには泥縄とも思えるような作業から着手してでも布教に励むことができたのだろう。
翻ってピダハンは、現に目にしたことしか信じない。見たこともない神様の言葉など、信じない。数も数えない。「赤」や「黄色」のような色だけを表す言葉もない。生活に使用しないからだ。
そして著者は、言語であれば必ず発生する「リカージョン」が、ピダハンの言語には起こらないことを発見する。
12月15日に放映された「地球ドラマチック ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」(NHK教育)では、この本の後日談が描かれていた。
リカージョンが起こらない言語がある、という著者の主張は、言語学界のお歴々を敵に回したらしい。かのノーム・チョムスキーもそんなことはないんじゃないの、くらいのことを言っていた。
言語学のことは何一つ知らないが、このときの映像を見た感想は、(著者はきっと業界では「この宣教師風情がなにを言う」くらいに見られているのだなあ)だ。チョムスキーが頭の固い大御所に見えた(実際にどうかは知らない)。
著者の主張の検証のため、著者本人も参加して現地でのサンプル採取が計画されたのだが、ブラジル国立インディオ保護財団により、著者の滞在は許可されない。説明を求めたものの、会話すら拒否される。映像の中では、言語学界で論争が起きたことに財団が警戒したためとされていた。
著者は、ピダハンの人々に会いたい、と訴える。
映像によれば今、ピダハンの住む地には、電気が引かれテレビが視聴でき、子供たちは学校で数を学んでいる。かつてと異なり、工業製品のTシャツやズボンを着用している。
ピダハンの人々は、互いの意思疎通が可能な言語を既に獲得している。言語能力が低いためにリカージョンが発生しないわけではなく、その生活様式にリカージョンが必要ないだけだろう。
そして、リカージョンが起こる言語が、優れているというわけでもないだろう。
知らなくてもよいことを知っていることは、生活に彩りを与える側面もあり、煩わしいことでもある。知らなかった時代に戻ることはもうない。
タイトルにある括弧つきの言語能力という言葉が、あとあと効いてくる。
もともとのタイトルは「寝るんじゃないぞ。蛇がいる。 アマゾンのジャングルにおける生活と言語」みたいな意味だ(たぶん)。
若くして信仰を得、それを布教する生活を送ってきた著者が、独自の言語をもつアマゾンの民ピダハンに出会い、人生を一変させたという物語。
信仰を現地語に翻訳する必要から、言語調査の基礎訓練を受け、布教に赴いては言語を学び、布教にいそしむという生活をしてきた著者。彼は家族(だけ)とともに現地に入り、ピダハンとともに生活し、それを理解するのはピダハン以外は前任者のみ、という彼らの言葉を学ぶ。
言葉の理解を深めるとともにピダハンの生活に触れ、親しく接することで、結果、聖書の翻訳は達成したものの、逆に信仰心を失い家族をも失うに至る。
相手がどういう人であれ、自らの信仰を是とし、それを伝え信じてもらうことが相手にとっても是であると信じる心は純粋だ。だからこそ、相手の言葉を習得するという、わたしには泥縄とも思えるような作業から着手してでも布教に励むことができたのだろう。
翻ってピダハンは、現に目にしたことしか信じない。見たこともない神様の言葉など、信じない。数も数えない。「赤」や「黄色」のような色だけを表す言葉もない。生活に使用しないからだ。
そして著者は、言語であれば必ず発生する「リカージョン」が、ピダハンの言語には起こらないことを発見する。
12月15日に放映された「地球ドラマチック ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」(NHK教育)では、この本の後日談が描かれていた。
リカージョンが起こらない言語がある、という著者の主張は、言語学界のお歴々を敵に回したらしい。かのノーム・チョムスキーもそんなことはないんじゃないの、くらいのことを言っていた。
言語学のことは何一つ知らないが、このときの映像を見た感想は、(著者はきっと業界では「この宣教師風情がなにを言う」くらいに見られているのだなあ)だ。チョムスキーが頭の固い大御所に見えた(実際にどうかは知らない)。
著者の主張の検証のため、著者本人も参加して現地でのサンプル採取が計画されたのだが、ブラジル国立インディオ保護財団により、著者の滞在は許可されない。説明を求めたものの、会話すら拒否される。映像の中では、言語学界で論争が起きたことに財団が警戒したためとされていた。
著者は、ピダハンの人々に会いたい、と訴える。
映像によれば今、ピダハンの住む地には、電気が引かれテレビが視聴でき、子供たちは学校で数を学んでいる。かつてと異なり、工業製品のTシャツやズボンを着用している。
ピダハンの人々は、互いの意思疎通が可能な言語を既に獲得している。言語能力が低いためにリカージョンが発生しないわけではなく、その生活様式にリカージョンが必要ないだけだろう。
そして、リカージョンが起こる言語が、優れているというわけでもないだろう。
知らなくてもよいことを知っていることは、生活に彩りを与える側面もあり、煩わしいことでもある。知らなかった時代に戻ることはもうない。