もうすぐクリスマス
もうすぐクリスマス
そしてあっという間にお正月

探し物をしていて書棚についている引き出しを開けたところ、以前に購入したシングルCDが30枚くらい出てきた。蒐集癖はないので、純粋に聴くために買ったCDである。が、そのなかから意外なものが。

The Three Wise Men "Thanks for Christmas / Countdown to Christmas
party time"
The Colonel "Too many cooks in the kitchen / I need protection"
いずれも1989年にヴァージン・ジャパン(株)が販売したものらしい。定価はそれぞれ2,000円。高い。高いがしかし。

買った覚えがない。
再生した記憶もない。
いずれの音源もXTCのコンピレーション盤"Rag & Bone Buffet"(1990)に収録されている。愛聴盤なのでどの曲もなじみ深い。だが、この2枚のシングルCDを聴いた記憶がまったくない。
なんでここにあるのだろう。わたしが買ったんだろうが。


The Three Wise Menの曲は、クレジットによると作者が「カスパール/メルキオール/バルタザール」と東方の三賢人そのまま、プロデュースはThe Three Wise Men&the Good Lord、という凝りよう。聴けばXTCのアンディ・パートリッジが歌っているとすぐに判るのだが。原盤は1983年に変名バンド名義でリリースしたもの。
このシングルCDにはムーンライダースの鈴木博文が、「XTCは音楽を楽しむことにかけて誠実である」との一文を寄せている。
保存が良くなくて、紙のジャケットとプラスチックケースが分離してしまっている。ぴっちりつつんでいたビニールをはがしたはいいが、収納用のビニール袋がなく、なんとも所在無げ。開封したということは、聴いたのだろうか。

かたやThe Colonel、ジャケットに「XTCのベーシスト、コリン・ムールディングが80年にリリースしたソロ・プロジェクト」とある。
これらの曲はずっと、XTCの曲だと思っていた。このCDを今日見るまで、知らなかった。たぶん前述の"Rag & Bone Buffet"の解説書に書かれていただろうが、記憶がない。愛聴盤とかいいながらこのていたらく。こちらのシングルCDはコーティングのビニールをはがしていないので、矢口博康が書いているという解説は未読だ。

"Thanks for Christmas"に歌われている世界は素朴だ。愛と幸いが雪のように降り注ぐクリスマスに感謝するという歌。ジョン・レノンやポール・マッカートニーのクリスマスソングほどではないけれど、シーズンになるとたまにテレビ番組のBGMに使われたりして、嬉しい気持ちになる。

神様への抗議を歌にした"Dear God"が同じくXTCによって世に出されるのは、1986年のことである。
わたしの顔は父親にそっくりだ。
顔が似ているということは、骨格も似ているのだろう。
音痴の原因はそこにあったか。


母校の幼稚園では、何故か音楽教室も開かれていた。
今にして思えば、運営会社が園舎を借りて放課後(?)引き続き音楽教室を開催していたのだろう。
ここでもわたしは、40数年を経ても忘れるに忘れられない歌と出会っている。

「わたしはやぶいしゃ」
わたしはやぶいしゃ ビリビリビッケンブン
なんでもすぐなおす ビリビリビッケンブン

後年「藪医者」の意味を知ったとき、わたしは大きな衝撃を受けた。

意味違うじゃん。

歌詞はこの後、頭の中身だけは治せない、と続く。
頭を良くしたいと思ったら、他人に頼らず自分で努力しなさい、という教訓だったのだろうか。
いたいけな幼児が合唱しているさまを想像すると、ほんとうにいたいけ。

音楽教室に入れてもらったものの、音楽の才がめばえることはなかった。
地元の同級生のうちピアノを習っている子は数人しかいないという時代で、わたしもピアノを習いたいな、と思ったものの、母の判断で習わせてはもらえなかった。
習ったところで、たぶんまともに弾けるようにはならなかっただろう。母ナイス。

あまり関係ないが、当時使用していたお弁当箱を、わたしは今も使っている。
蓋に「ひょっこりひょうたん島」のサンデー先生・マシンガンダンディ・ライオンのイラストが描かれた、アルミのお弁当箱だ。
昔の物は長持ちしますな。
ツイッターというものが、よく解らない

現代人の必携アイテム、ツイッター。
掲示板とかチャットルームとかと、どう違うの?
ひっきりなしに見ていないと、まずいの?
ガラケーでもできるの?
疑問は尽きない。
その上、「リツイート」だの「タイムライン」だの知らない言葉が次々と出て来るに至り、どうもわたしには解らないツールだと結論付けてしまった。
ああ、英語は得意だった筈なのに。「Y2K」の意味が解らなかった苦い思い出が蘇る。ああ無念。

日常で会話を弾ませることが苦手なわたしであるが、せっかく発言するならウケたい。
職場の会話などでも、珠玉のエピソードを繰り出すべく、人知れず葛藤が尽きないわたくしである。
ツイッターなどというもので、会話を弾ませることができるのか。瞬発力が要りそうだ。
相手をしてくれる人が存在するのか。
独り言では日記だ。日記にしてはせわしない。

『中の人などいない @NHK広報のツイートはなぜユルい?』NHK_PR1号著 新潮社 2012
この本で著者は、広報のツイッターで目指すのは情報の発信よりむしろ、情報の受信だと綴る。ツイッターの仲間を信じ、会話を重ねることでNHKを知ってもらうのが、広報の役割であると。
広報とは広聴である、ということか。
そして、公共放送であるNHKとは、「あなたのNHK」ではなく「あなたがNHK」である、つまり、あなたこそが「中の人」なのだ、と綴る。
サービス業は、サービスする人とされる人に分かれ、する人がサービスの主体と思いがちだが、サービスの当事者であるのはむしろ、される人である。される人の思いに立ったサービスを供給するのが、サービスする人の役割だ。

ユーモラスな筆致で読みやすいが、業務に対する真摯な姿勢も伝わる。

なるほど、ツイッターは面前にいない人ともそこにいるかのように会話できるもの、という基本は理解できた。押さえたぞ。

遠い遠いツイッターが、隣の県くらいに近くなりました。




踊ろう、赤い靴

2012年12月9日 TV
職場の友人は、ひとり娘にバレエを習わせていた。それを知ったとき、わたしはひとり感激した。

ついにそんな時代が来たのだ!
バレエを教えてくれるところも、習いたい子供も、習わせたい親もいるのだ、この地域に!

ドラマ「赤い靴」は、子供のバレエ教室ではなく、年若いがきっとバレエを職業としていくのであろう人たちを描いた物語であった(と思う。例によって物語の記憶はあいまい)。
なんといっても印象に残るのはやはり、オープニングを飾る主題歌である。
歌詞(ただし一番だけ。二番以降があったかどうかは知らない)もメロディーも、例によって覚えている。

踊ろう赤い靴 光の湖で 小鳥が舞うように きれいな輪を描こう
果てない美しさ 求める赤い靴 光の波間から わき立つ夢
心と心の窓 開いてゆく その靴音
みんなが辛い時 わたしも辛いけど 選んだ道だから 歩いてゆく

作詞は岩谷時子によるという(出典・ウィキペディア)。メロディーがなくとも詩として読めるし、字余りにならないし、途中でいきなり英単語が出てきたりしないんだyeah。6歳児(当時)の心に残る、美しい歌詞である。
そもそも昔のドラマの主題歌は、ちゃんとタイトルを歌いこんでいた。「なんたって18歳!」とか「1・2・3と4・5・ロク」とか「ケーキ屋ケンちゃん」とか。あ、ケンちゃんは「だってだってだってぼくんちケーキ屋なんだもん」だったか。自分で自分のこと「ケンちゃん」とは言わないか。
わたしは「こがらしさん」であるのだが。

その頃わたしは小学校の友達と、近所にあった元は事務所だったと思しき建物で、バレエごっこをして遊んでいた。そこは誰も使っていないのに鍵がかかっていないという不思議な建物で、誰にも断らず勝手に入り込んで遊んでいた。今ならもれなく警備保障が飛んで来るな。
「飛んで来る」はもしかしたら地域語かも知れない。走って来る、急いで来るの意。

窓枠をつかんで、それらしく足を動かして遊んでいたが、バレエを習いたいとはまったく思わなかった。自分に適性があるとかないとかではなく、違う次元のお話だと感じていたからである。
ちなみに娘にバレエを習わせていた友人は、漫画「エロイカより愛をこめて」を読んで本気でNATO職員を目指したという。かくいうわたしは、「少年探偵団に入るにはどうしたらいいか」が学童時代のテーマだった。

いずれも次元違い過ぎ。


一年があっというま

1月
「合気道の受け身は投げられないと骨折する」と知る。

結婚式(わたしのではない)出席
新郎の可愛らしさと新婦の清楚さ、余興の素晴らしさを堪能。おめでとう!

『二流小説家』(デイヴィッド・ゴードン 早川書房 2011)読了
主人公の造形や細部の描写、訳文も好感が持てるのだが、いかんせん、犯罪がグロすぎる。
あんまり売れていないとかいいながら、素敵な読者を獲得しているのだから、主人公は腕がよいのだな。

2月
手帳に「譜面通りに歌わない それがボブ・ディラン」と書いてあったが、なにがあったのか。

『ねたあとに』(長嶋有 朝日文庫 2012)読了
新聞掲載時は、たまに目を通すとゲームの説明だったりして、とらえどころのないストーリーだなあ、と思っていた。ちゃんと読まないとだめだな。
どうにもならないくらい眠くないと楽しめないしりとり、ってわかるなあ。残業の時、くだないことで異様に盛り上がりますしな。

3月
ピンクフロイド「狂気」リリースから40年

「シャキーン」、あやめちゃんが種まきの旅へ
あやめちゃんのおかげで毎朝出勤できました。女子高生なのだなあ。

4月
リヴォン・ヘルム逝去
天国のほうが賑やかになってきちゃいましたな。

5月
青山陽一ライヴ(静岡 Living room)
駐車場へ向かう途中、ギターを背負って立ち止まり、地図を眺める青山氏を発見。ツーシーター車だったので、何もできず通り過ぎる。
途中、「電池が切れ、演者が買いに走る」という漫画のような出来事もあり、それも含めて、単独ライヴの醍醐味を堪能。

日本ダービー
初競馬場。楽しい。つい買っちゃう。いかん。

6月・7月
ろくなことがなかったらしい。手帳に殆ど記録がない。
レイ・ブラッドベリ逝去。

8月
『文学賞メッタ斬り!ファイナル』(大森望、豊崎由美 PARCO出版 2012)読了
この本を読んで暫く、津原泰水やら円城塔やら読んだ。本を読まないとだめだ。

『ばかごはん』(べつやくれい アスペクト 2012)読了
我が家では著者を「べつやく先生」、お父上を「大別役」と呼んでいる。むろんデュマにちなんでのことで、呼び捨てているわけではない。
誰かに聞かれて誤解されては困るので、一応記録しておく。

9月
結婚式(わたしのではないが親族の)出席
遠くからのご臨席、ありがとうございます。

10月
metrotron records 25th anniversay project Vol.2 supported by ASTRO HALL (東京 アストロホール)
以下感想
・原宿にこんな妙齢のわたしたちを並ばせるとは。倒れたらどうするんだよ
・立ち見はねえよなあ
・やっぱりステッキチェア持って来ればよかった
・カーネーション、かっこいいなあ
・あなた、サッカー選手ですか!?
(隣にいた人が、わたしもうすぐ天皇杯だから、と言っていた。すげえ)
・青山、歌うんじゃねえよ
(喉の調子が悪く声が出せない状態で歌っていた。出ないのに出そうとすると、いつまでもよくならないと思う)
・コルネッツ、いいなあ
日頃から心身鍛えないと、音楽も楽しめないということが解りました。

11月
結婚式(わたしのではない)出席
新婦が可愛くて感涙。おめでとう。余興も素晴らしかった。
余興が投稿サイトにアップされ、我が後姿が全世界デビュー。






 
「ワインに合う」とはどういうことか
「ワインに合う」とはどういうことか
今日が本当のクリスマス

クリスマスイヴのディナーをいただきました。
ごちそうさまでした。

おいしいフランス料理で、かなりのボリュームでした。
素材やソースがとても濃厚。
口直しのシャーベットの意義を痛感しました。
たしかに、しぶーいワインがよく合いそうです。
といっても、ワイン、飲めませんが。
飲んでも頭が痛くならないワインがあるといいなあ。
ついでに酔わないと、もっといいな。

しぶーいウーロン茶(ホット)がよく合いました。
おいしかったです。
D.L.エヴェレット『ピダハン「言語能力」を超える文化と世界観』(みすず書房 2012)

タイトルにある括弧つきの言語能力という言葉が、あとあと効いてくる。

もともとのタイトルは「寝るんじゃないぞ。蛇がいる。 アマゾンのジャングルにおける生活と言語」みたいな意味だ(たぶん)。
若くして信仰を得、それを布教する生活を送ってきた著者が、独自の言語をもつアマゾンの民ピダハンに出会い、人生を一変させたという物語。
信仰を現地語に翻訳する必要から、言語調査の基礎訓練を受け、布教に赴いては言語を学び、布教にいそしむという生活をしてきた著者。彼は家族(だけ)とともに現地に入り、ピダハンとともに生活し、それを理解するのはピダハン以外は前任者のみ、という彼らの言葉を学ぶ。
言葉の理解を深めるとともにピダハンの生活に触れ、親しく接することで、結果、聖書の翻訳は達成したものの、逆に信仰心を失い家族をも失うに至る。

相手がどういう人であれ、自らの信仰を是とし、それを伝え信じてもらうことが相手にとっても是であると信じる心は純粋だ。だからこそ、相手の言葉を習得するという、わたしには泥縄とも思えるような作業から着手してでも布教に励むことができたのだろう。
翻ってピダハンは、現に目にしたことしか信じない。見たこともない神様の言葉など、信じない。数も数えない。「赤」や「黄色」のような色だけを表す言葉もない。生活に使用しないからだ。
そして著者は、言語であれば必ず発生する「リカージョン」が、ピダハンの言語には起こらないことを発見する。

12月15日に放映された「地球ドラマチック ピダハン 謎の言語を操るアマゾンの民」(NHK教育)では、この本の後日談が描かれていた。
リカージョンが起こらない言語がある、という著者の主張は、言語学界のお歴々を敵に回したらしい。かのノーム・チョムスキーもそんなことはないんじゃないの、くらいのことを言っていた。

言語学のことは何一つ知らないが、このときの映像を見た感想は、(著者はきっと業界では「この宣教師風情がなにを言う」くらいに見られているのだなあ)だ。チョムスキーが頭の固い大御所に見えた(実際にどうかは知らない)。

著者の主張の検証のため、著者本人も参加して現地でのサンプル採取が計画されたのだが、ブラジル国立インディオ保護財団により、著者の滞在は許可されない。説明を求めたものの、会話すら拒否される。映像の中では、言語学界で論争が起きたことに財団が警戒したためとされていた。

著者は、ピダハンの人々に会いたい、と訴える。

映像によれば今、ピダハンの住む地には、電気が引かれテレビが視聴でき、子供たちは学校で数を学んでいる。かつてと異なり、工業製品のTシャツやズボンを着用している。

ピダハンの人々は、互いの意思疎通が可能な言語を既に獲得している。言語能力が低いためにリカージョンが発生しないわけではなく、その生活様式にリカージョンが必要ないだけだろう。
そして、リカージョンが起こる言語が、優れているというわけでもないだろう。

知らなくてもよいことを知っていることは、生活に彩りを与える側面もあり、煩わしいことでもある。知らなかった時代に戻ることはもうない。
ひとあしさきに正月太り

11月
職場の慰安旅行で、旧岩崎邸庭園(東京)へ
設計はジョサイア・コンドル。河鍋暁斎の弟子ですな。
壁に和紙が貼られた部屋やら、天井仕上げが刺繍した絹地の部屋やら、内部仕上げの意匠がすごい。
東京の公園には、名士の皆さんの資産だったものが結構あるんですな。

12月
早起きができなくなる
最近、もっぱら5時45分起きだ。5時半には起きたいものである。

「鶏南ばんそば」(日清食品)を賞味する
ふだんカップめんを食べないのですが、旨い。
神田まつや監修だそうです。まつやの焼き鳥おいしいもんなあ。

ジャック・クラグマン逝去
ドラマ「Dr.刑事クインシー」であるよ。
助手のサムがかっこよかったんだよ。
吹き替えも熱演だったなあ。


有野課長を見ながら過ごす年末。風がすごいので洗濯物が心配。


君はフイルムコンサートを覚えているか

The Jam "Town called malice"「悪意という名の町」(1982)
やっとブリティッシュチャートにも目を向け始めた頃にヒットしていた曲。
わたしも高校生なのだ、こういうパンクっぽい、主張のあるバンドを聴かなくちゃ。ポール・ウェラーかっこいいし。いつまでもビリー・ジョエルやホール&オーツじゃいかんだろう。
と思った矢先に解散。

そんなわたしの心を埋めたのが、かのデュランデュランである。
高校の同級生が彼らのファンで、地元のレコード屋さんで行われた「フイルムコンサート」(プロモーション映像の上映)に行ったものだ。懐かしい。
表だっては、「ああいう格好のバンドはちょっと…」というのがわたしのスタンスだったが、本当は割と好きだった。デュランデュランの曲は印象に残るものが多い。が、あんまり邦題はついていないのだ。残念至極。


Duran Duran "Girls on film" 「グラビアの美少女」(1981)
邦題をつけるのであれば、このくらいのクォリティを保ってほしいわたしである。

しかし、デュランデュランの楽曲には、邦題を考えるうえで忘れてはならないものが。
それは、1983年のヒット曲、「プリーズ・テル・ミー・ナウ」である。
日本語のタイトルがついていないことに文句をつけるわけではない。
むしろ反対。

もともとのタイトルは"Is there something I should know?"である。「なにか知っておいたほうがいいことがあるのですか?」(直訳)だ。
しかしこれは、邦題「プリーズ・テル・ミー・ナウ」で正解なのだ。
歌い出しだけで"Please please tell me now"を4回も繰り返しているのである。
楽曲を通して一番印象に残るフレーズ、それは「プリーズ・テル・ミー・ナウ」。
でかした。
"Please tell me now"では目的語だか補語だかがないから意味が通らない、などとは言わせないのである。
なぜなら。

同じくデュランデュランの楽曲に、こんなものがあるではないか。

"A view to a kill"(1985)
邦題は、「007/美しき獲物たち」であるが、これはその名の通り同名映画のテーマ曲であるから、ほかのタイトルをつけようがない。問題は原題のほう。
おなじみウィキペディアによれば、もともとの原作小説は"From a view to a kill"であったのだが、映画化の際、頭のfromを取ってしまったそうだ。その結果、"A view to a kill"という意味をなさないフレーズがタイトルになったしまったそうである。

英語が母語の人でもこういうことをやるのだと思うと、心強いなあ。